1968年生まれのわたしは、小学校6年のときに1980年を迎えたんだな。ふと、小学校の同級生に、剣道家で洋楽好きな梅田くんと、背の高いなんとかさんという方(すごい背の高い女の子。名前、なんだったっけ…山本さんだっけかな?)がわたしへの寄せ書きに洋楽、ロックの良さについて書いていてくれたのを思い出した。
当時、わたしは、小学校4年くらいからはまっていたYMOに首ったけ。すでに結構な枚数のレコードを持っていた。放送委員長を務めていたのもあり、音楽やその機材には精通していたほうだと思う。昼休みの放送でよくYMOをかけたものだ。同年、Duran Duranが結成されていることなど知る由もないほど平和でのどかな小学生時代であった。
中学校に入り、ますます楽器への関心は高まり、シンセサイザーいじりたさに楽器店によくこもった。そのうち、ドラムをむしょうにやりたくなった。なんとなく聴いていた稲垣潤一とか、オフコースのドラムがかっこよく見えたというのもあるかもしれない。
受験勉強のピークへと登りつめるのに比例して、ラジオへの依存度も高まった。毎晩11時を過ぎたころのジェットストリーム。YMOから徐々に守備範囲は広がり、冨田勲、ヒューマンリーグ(Human League)、クラフトワーク(Kraftwerk)、と続き、そして次第に洋楽ヒットチャートへ。土曜の午後のFM大阪による洋楽ヒットチャート、あとは深夜番組のベストヒットUSAなんかもチェックしていたような。
受験勉強で煮詰まった頭が、音楽を聴きながら星新一などを読むとほぐれていくのをよく感じたものだ。そう、やっと、電子音、SE(sound effect)が、単に好奇心のための追求だったものが、精神安定剤としての効果へと変化してきた頃だと思う。
そのラジオをエアーチェック(懐かしい表現!)したテープに入っていた曲から、CASIOPEA(カシオペア)というバンドを知った。初めて聴いた曲は「Looking Up」。この曲と、これまたナイスな「ASAYAKE(朝焼け)」を含むアルバム、「Photographs」は、なんともdandy、noble、duzzling(まさのそのタイトルの曲もある)な作品だ。
13,4才のなで肩にかかる果てしない受験勉強、親、先生、周囲から、がんばれがんばれと、逃げるわけにいかないプレッシャー、それでいて、なかなか上がらない数学の成績(笑。その中で、この曲に浸っているときは、暗い中から見上げた高い空を感じさせるような、息を吸わせてくれるような気がするひとときだった。
そうして、この曲に惚れたわたしは、受験が終わって高専に行けば、この曲を演奏しよう。そう、「楽器をやる」というより、「この曲をやる」と決め、実際にそうした。10代のころはずっとこれが応援ソングの主力だったと思う。その演奏回数はもう覚えていないほどだ。とはいえ、その後、洋楽ヒットチャート真っ只中時代は、確実に私の思春期を彩ってくれたのである。
(つづく)
(add your comments!!)