okdtとかいつものgmailアドレスとかでreset passwordしまくっていたのだけど、なかなかメールが来なかった。やっと来たメールは実際の到着まで7,8時間はかかってるね。mailq が溜まっていたのかもしれない。

ともかく、okdt.wordpress.com としてこのブログを書いてる。そのうち変えるかもしれないけど、ともかくここまで来られて良かった。

リサーチャー諸君。

Fun to research.

地球からの距離は約600光年とされる一等星ベテルギウスでこんな話題が舞い込んできました。

asahi.com(朝日新聞社):ベテルギウスに爆発の兆候 大きさ急減、表面でこぼこ – サイエンス:

オリオン座の1等星「ベテルギウス」で、超新星爆発へ向かうと見られる兆候が観測されている。米航空宇宙局(NASA)が6日に公開した画像には、星の表面の盛り上がりとみられる二つの大きな白い模様が写っていた。この15年で大きさが15%減ったという報告もあり、専門家は「爆発は数万年後かもしれないが、明日でもおかしくない」と話す。もし爆発すれば、満月ほどの明るさになり、昼でも見えるようになる。

 冬の大三角の一つでもあるベテルギウスは、赤色超巨星と呼ばれる巨大な星。直径は太陽の1千倍で、太陽系にあるとしたら、地球や火星はおろか木星までが覆われる大きさだ。重いため一生は短く、まだ数百万歳(太陽は46億歳)だが、すでに寿命に近い。最後は超新星爆発を起こし、ブラックホールなどになるとされる。

  地球からの距離は約600光年。

もし爆発すれば?明日でもおかしくない?数万年後かもしれない?だって600光年ですよ。光、電波いずれも地球に届くのに600年かかるわけだよね。仮に明日「爆発した!」となっても、それは600年前に起きた出来事がやっと地球に伝わったということ。爆発したのかどうかは、すでに結論は出ているかもしれない。これは面白い。どんだけ過去と現在と未来を自由に使ってるのかと。

遠い星の過去の歴史が届くのを待ちながら、自分たちの未来を予測する仕事なのですね。
ロマンを感じる、、といきたいところだが、むしろ背筋に冷たいものを感じる気がする。だって、地球に情報が届いていないだけで、宇宙的にはもう決まってるわけだし。

遠い星を調査する天文の専門家は、未来に向かって調査を進めているというよりは、過去にすでに起きた出来事が地球に届くのをひたすら待っているのですね。光よりも早いスピードで伝達するものを見つけられれば、もっと先のことまでわかるわけだ。おっと、「光速よりも先に伝搬し影響を及ぼす何かがある」とすると、観測して予測するより先にどがーんと影響を受けてしまう。

これは急がねばならぬのでは。光より速い、観測可能なものを早いところ見つけろ、と。
は、それがスーパーコンピューターで計算できたら世界一だねw

それはそうと、600光年って、まあ、思ったより近いしリアルな印象を受けました。ウルトラの星、M78星雲は銀河系から300万光年だからおとぎ話でいられるわけですね・・・。

は!ウルトラマンはどうやって移動するんだろう!?ウルトラマンは地球の平和を守るためにちまちま怪獣退治してる場合ではなく、むしろ宇宙で何が起きているのかを伝えるという仕事をしてくれたらいいんだよな。

スーパーコンピューターじゃだめだ、ウルトラコンピュータじゃないと!

「宇宙」が面白くなってまいりました。

国立天文台天文情報センター暦計算室によると、2010年の元旦は満月。
http://www.nao.ac.jp/koyomi/

元日と満月の組み合わせは30年に一度だそうです(裏はとれず)。

追記:しかも!2010年元日の早朝に、部分月食が起こるそうです。

2010年最初の月食は部分月食で、元日の早朝に起こります。食が始まるのは午前3時52分頃、終わるのは午前4時54分頃で、食の最大は午前4時23分頃となります。

なにはともあれ、さまざまな景気循環説は数十年単位ですよね。

1980年代。オープン・イノベーションの担い手が大手企業のR&Dからベンチャーに移ったドラスティックな時代。音楽的には80’sは時代を超えてひとつの伝説化しています。フュージョンブームでもありましたね、コピーバンドの多さが支えました。

当時わたしはティーンエイジャーで、高専で、勉強も、バイトも、バンドも、好きにいろんなチャレンジをした時代でした。そう、もっと好きにやってもよかった。今?再びやってるんだなあ、そういうこと。

1990年代。生産重視系、焼き畑農業的ビジネスのバブルははじけるわけですが、技術革新のシードが大きく発展した時代。

わたしはOAの会社を経て、早くにUNIX系エンジニアに。とても早くにインターネットに接することができたためにLinuxとともに成長し、それをきっかけにさまざまな人の出会いやプロフェッショナルビジネスに恵まれました。

2000年代。IT・ネットバブルが一旦はじけ、競争力の源泉がめまぐるしく変化する時代。この10年をぜえぜえいいながら走ってきたわけですが、この時代にいろんな「起業」を体験し、そして末吉さんとか高須賀さんとか大前さんとか他にも大勢の「匠」、あとは不断の仲間を得、それぞれから常に学ぶ機会をいただいている。これはとても大きいと思います。

2009年、大勢の方々に力を得て今日までめちゃめちゃスリリングに過ごしました。公私ともに、いろんなバッターボックスに立たせていただけた。とてもとても感謝しております。

つらいことも、楽しかったことも、必ずいいことにつながります。逃げと失敗は本質的に違う。失敗に折れないことも、成功に甘んじないことも成長につながります。

2010年を迎える今、景気循環が何年単位でもいいんですけど、とにかくマクロ的弁証法的にも、ミクロ的体感的にも、原点回帰とステップアップの両方がどくっどくっと躍動が来てる感覚があります。そして、エンジニアリングふたたび。Emacs率急上昇中です。社会心理学の実装に没頭することにも決めました。

さあ、元日、「大きなツキ」を見よう。

なにこれ、woofer? 英辞郎曰く、「低いうなり声[音]を出す」

そうするとここでは「つぶやく」感じではなく、ぶつぶつと好きなことを延々と言えというわけですね。あまり人として充実した感じはしないが、まあ人の言うことなんて自分にとっては名言だが聴き手にとってはうなってる程度なのかもだね。

このインターフェース、なにが一番のキモかってこの文字数カウンターだよね。Twitterでは、「あと何文字書けるか」を140から減じていく方法で表示させるのに対し、Wooferでは、「あと何文字書かなければならないか」を-1400から加算していく方法でひたすら「0」になるのを目指させる。

で、どれどれ、と書き始めると、なかなか1400文字も行かない。最初はこのページの雰囲気に引っ張られて、普通にtwitterぽく書いていくわけだが、少々長く書いたところで-1241とか書かれていて、

「あはは。おまえ、そんな程度しか文字書けないのかよ。ずいぶん体力落ちたな! twitterなんぞで中途半端に情報メタボになっちまってるんじゃネーノ?(爆」と言われてる感じだ。「そりゃこのインターフェースの狭さのせいじゃないのかよ」と言ってみよう。この時点ではそう思った。

だってさ、私の場合、記事を書く場合はWordやWriteRoom(Mac用執筆ソフト)で書く。パワポでも、A3モードにする。そこには「書くべき内容をじゃんじゃん投げ込める広い面積」を確保し、遠慮無く書く。とにかく好き放題発散してもあとで俯瞰して編集し、自分のタイム感で「語りかけ」をする。広いってすばらしい。つまり、書くべきものにふさわしい広さとタイム感を持った入力先が必要だろう。

なんてのはどうかね。

「インターフェースの面積」 x 「インターフェースが強制するタイム感」=「執筆空間」

twitterは面積が狭い上に、早いスピードを強制するから、それは直感的かつ短命な情報がじゃんじゃん現れるわけだが、なぜかしら執筆エネルギーをそいでしまうため、blogなど長文を書く頻度、あるいは書いたとしてもその量、質すなわちゆとりを持って彩りのある表現を存分に駆使することに元気がでなくなる。

広い面積のRHODIAや、3Mのイーゼルパッドで、ゆったりとした時間をとり、思考のマッピングをする人を何人か知ってる。プチアイデアを落としてしまわないために急いで書くことを怠るわけではないのだが、そういう「ちょっとしたレベル」の情報単位はポストイットやRHODIA#11を使う。Evernoteはそこに位置づけられる。

すなわち、Twitterではその「ちょっとしたレベル」で人とプチ情報の交換ができる、そういうことが起きていると思えるわけなのだが、そこでは連携性のある思考マッピングには向かない。短期記憶に収納するには大きすぎるし、せかせかとした情報フローでは立体的なビジョンを書き落とせないからだ。

ここに大きな思考表現の機会損失があることは明白だ。

どうすればいいか。少なくとも、利用のシチュエーションごとにばさっと切り替えるとか。いわゆるパソコンのキーボードを使うときは、ばっさりtwitterに書かないとか。思考マッピングできる「広い面積」の出番を減じないようにし、自分のはけ口に安易にtwitterを使わないことにする。ケータイやスマートフォンはいいとしよう。老若男女とせいぜい仲良くtweetしよう。

次に、twitterでは「タイム感」を落とす。これはfollowerを減らすか、スルー力をつけるしかない。follow数が劇的に少ない人に面白い発言者が多い気がする。要するに「タイム感」を強制されていないからかもよ。

1400文字書くのも、やってみると乗ってきますな。途中で息切れしつつも、乗ってくるとこの狭いインターフェースでも結構書けてしまう。楽々1400文字をクリア。インターフェースが狭くても、タイム感がゆるやかだからかもしれない。でも、ここまでで15分もたっていない。

あら・・・。

まずい。

連載の4000文字がなぜさらっと〆切までに書けないのかと編集長Fさんに怒られてしまうではないか。

+365文字となったよ。
良いお年を。

# 本投稿は、wooferで書いたものをコピペしたものです。

自宅のINAXのシャワートイレのリモコンが、突然反応しなくなった。(ウォシュレット必須の私にはこれは大事件なわけです。)

かつてTOTOのものを使っていたことがありますが、そもそもリモコンなんて不安定な意思伝達手段ではなく本体直付けだったので、こんな問題は初めてです。

電池を替えても反応はない・・・。本体には緑のLEDが点灯しており、本体故障の雰囲気はない、と。困りました。

ネットで検索しますと、OKwaveYahoo知恵袋にそれぞれ同様の問題を相談している人がおり、2chにもスレがあり、、、どうもINAXのシャワートイレの故障は「よくあること」だということを理解しました。

しかし、それら情報からは事態を打開する具体的な手段が書かれていませんでした。
うう、群衆の叡智は専門知識には向かないのか!いえいえ、これは、「電材屋さんがネットで交流などしていない」という、業界ごとのネット情報の「むら」を露呈しているのでしょう。

難しいことはさておき、ともかく、INAXに電話しました。しばらくしてつながり、その後のやりとりで担当者からのコールバックを待つことになりました。

担当者は関西弁のおじさん。関西人の私にはまるで問題なし。

状況を説明したところ、リセットしてみることになりました。

■ リモコンのリセット

  1. リモコンの電池を二つともはずしてしまう
  2. その状態で、どのボタンでもいいので、「とーん、とーん、とーん」というペースで10回押す。(←キモ)(わたしは複数のボタンで、合計30回くらい押した)
  3. 新しい電池を入れる
  4. 電池のランプは点灯しない。点滅(電池切れのサイン)もしないのが正常。

■ 本体のリセット方法

  1. 電源をコンセントから抜いてしまう
  2. 10秒以上待つ(←キモ)
  3. 電源を入れると電源が入る
  4. さらに念のため、コンセントのところにある漏電の緑のボタンを長押し、次いで手を離す
  5. 電源が入る

というわけです。

リモコンと本体のリセットは、どうも内部で持っている記憶を消すことが大事なのだそうで、ホントかどうか知りませんが、とにかくこれで動作するようになりました。

少なくとも、私の感じる範囲では、INAXのお客さま相談ダイヤルは、とてもわかりやすい、迅速な良い対応だったと思います。

どうもありがとう、INAXのお客さま相談ダイヤルのおじさん。

追記(2009/10/6)
この投稿のあと、twitterでkinnekoさんにコメントをもらいました。
http://twitter.com/kinneko/status/4620624916

それならケータイカメラで発光部を撮影して無発光を確認したほうが吉。

早速やってみました。携帯カメラを通して(撮影までしなくて良い)リモコンを見ている状態でスイッチをぽちぽちやってみますと、肉眼では見えない赤外線の発光が、確かに見えます!
テレビのでもエアコンのでも、見えます。案外面白い。(すぐ飽きますが。)

「リモコンが反応しないとき、赤外線を発光してるのかどうかを簡単に調べる方法」は、「携帯カメラを通してスイッチを触って発光しているかどうか見てみる」ですね!

その筋の人(kinnekoさん)には「常識以下」の知識なんだそうですが(汗)、私は知らなかったので記録のため書いておきます。

ありがとう、kinnekoさん。

土用丑の日を盛り上げる企画だろう、昨日だか一昨日だかでテレビでやってた。

リポーターは鰻関連の名店の板前さんに、「スーパーで買ううなぎのおいしい暖め方を教えてください」なんて無茶なことを質問していた。エキスパートに恥も外聞もなく質問をするのはとても良いことだ。Wisdom Access Questionは「相手を見極める」ことから始まる。

その方法を試した。土用を待てず土曜に。

すんごい旨かった。まじでやばかった。めちゃめちゃうまい。ちょっと探したが、同じ情報はWEBで文字で読めなかった。

食い道楽okdtとしては、これを再度言語化して伝搬しないことは許されまい。

まてよ、土用丑の日の食卓はもうすぐ終わるではないか。速報はtwitterで書くのが一番。虹が出てるのを教えてもらったお礼のような気持ちで、土用丑の日の食卓に伝搬すべく、140文字に収めた。

スーパーで買う鰻のうまいあたため方。水で鰻を軽く指で洗い流し、タレをとる。ペーパーで水を拭き取り、皮サイドを下にフライパンに入れる。水:酒=1:1でひたひたにし、アルミホイルを落としぶたに5分、中火でぐらぐらと煮る。ゆで汁をきり、付属のタレを加え「身」の側を下に返し、1分加熱。

http://twitter.com/okdt/statuses/2720425339

タレを洗い流しちゃうところが勇気がいるが、それこそ旨さの秘密そのものである。

お試しあれ。明日も鰻は売ってるから。

「確かにおっしゃるとおりなんですが、その会議ではそれを指摘できるような空気ではありませんで・・・」

「空気」はエライ。”KY”なんて甘いもんじゃない。人の倫理観よりもリクツよりも正論よりもはるかにエライ。これが集団の中で流れてる時は、まさに絶対服従の力がある。

特に日本では、この「空気」に抗うと、いわば「抗空気罪」にてその社会から完全に排除され、鼻つまみ者とされる。市中引き回しの上打ち首獄門に近い目にあう。なんてことを、1970年代にばしっと論じた、山本七平著「空気の研究」という本を読んだ。彼はユダヤ人と日本人の違いだとかいう国民性分析に強い印象のある人だ。

Amazon: 「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

折しも、先日、何年ぶりかにお伺いしたフライシュマンヒラード社の田中慎一さんと2時間くらいディスカッションをした。その中で、さんざん感覚的なエリアの可視化の話で盛り上がった際、彼が「空気って間接話法的なんですよ。そこでメッセージのレバレッジが起きてしまう。」という言葉を発した。

「ああ」と納得したよ。空気ってそういうものなんだよな。

じゃあその空気とは、どうやってできるものなのか。そう、それは、誰かが意図的に、ある「空気」が作られた例を分析すれば、それがどのような要素によって成り立っているかわかるはずだと同著は述べる。そう、「空気」を変えるとか、作れる人間はものすごい強い力を持っていることになる。これはとてつもなく利用価値があるし、かたや、大きな脅威ともなりうる。

これはマーケティングの世界でも十分に面白い。ニーズを空気として読む。風向き、なんてこの文脈では極めてうまい表現だ。ここで、インフルエンサーマーケティングなんてのは、まだどっぷりプロモーションの領域にあるように思う。実際には、どういうメッセージを出すかについての「土俵」の構築に使うべきで、これこそがまさに「空気」の構築の世界に近いのだ。

集合知とか、集団IQだとか、衆愚とか、「企業知」とか、いずれにしてもこの「空気」の支配力、影響力という観点で考えると、Wisdom of Crowdこと群衆の叡智の発生要件の中での「独立性」「拡散性」というものの位置づけを理解できる気がした。

それにしても、この「空気」に絶対的な権力を持たせておくと、個人はリスクをとらなくていいから、なにかと都合がいい。不満分子がいても、集団は大きく逸脱しないよう抑制される。嫌われそうなことは言わなくていいし、それで集団が自滅しても自分のせいではない。

農耕民族的思考では、集団でさえうまくいく。集団の「雰囲気」が習慣を強制し、農作業に人を赴かせる。そのような背景から産まれたであろう、すべてにおいて正解習得主義の日本的教育システムが、この「空気」の権力を強めていると考えられる。

しかし、残念なことに、みんながこつこつ生きてるだけで将来が保証されるという時代ではなくなってくると、実際にみんなが従ってて安心な方向性を示す「空気」があてにならなくなる。この空気が、日本の人口をアジアで唯一激減に向かわせ、消費を押し下げ、労働を辛くし、企業の成長努力を否定している。みなさん、そうしてらっしゃいます、と。

そこをばさっとかっさらっていく、「空気」を読まずにぐんぐんいく連中がいる。外資、すなわち・・・Googleしかり、Microsoftしかり。萎縮している人たちをかっさらうのは、すくんでるうさぎを捕まえるように簡単なんだろう。

いや、それも、ご時世柄、そういう空気なんだな(笑)。答えなど、どこにもないことを誰もが言いにくいから、自己啓発、メソドロジーが売れているんだろう。空気は読まなくていいとは言わないが、この「空気」を肺一杯吸って生きてる以上、そこにイノベーションを期待しちゃいけないようだ。

惰性では物事は進まない。既存のどんよりとした空気の中に飛び込んで暗中模索し、何かを取りだそうとするよりも、その空気とやらを横目に、意図的にストーリーを作っていくほうが勝っている。

人の有りようを強く意識する日本人だからこそ、ソーシャルテクノロジで自らの意思を進めるための強力なヒントを見つけられるはずだ。

某サイトで見かけてコメントしたこの記事「本当に転職に有利なのか? 日本の社会人大学院事情」。

あらあら、タイトルに「本当に」とかつけると、「そうでない例」に着目するわけだから、その路線で終えちゃうと、そこはかとなく浅い。タイトルと結論だけで、あからさまなバイアスが見えておしまい。中身は案の定、タイトルの「転職に有利なのかどうか」という問題にすら根拠(複数の客観的事実、あるいは論証済みのものが「根拠」の最低条件とすると)がない単なる意見の羅列。肝心の、就職状況における需要側の欲しいスキルセットと訓練の中身のマッチングには残念ながら切り込んでおらず、筆者のイメージとお仲間の世界。

So what? だからどうなの、という部分は読者が考えろというメッセージなのかな。

どうせ不況産業なんだからさー、そんなに浅い意見ならスルーしとけばって感じ。あるいは、タイトルが「本当に」はじまりで、結論が「本当だった!」なんてオチの記事だったらむしろ話題として面白いのに・・・。

専門資格が転職に有利かどうかという問いかけだけど。

「有利」って何をもって言うのかな。就業をかけた全体的な競争力、ではないでしょう。年俸?職責? 全体的就職難の中、資格が守備範囲を拡げるって意味でもないよね。

受け入れ側の募集に資格が明示されているとしましょう。薬剤師にしても医者にしてもネットワークスペシャリストにしてもPh.Dにしてもlawyerにしてもmbaにしても。それぞれの資格は就ける職種をむしろ狭めてしまう。さらに、そこでその資格ホルダー同士での取捨選択になる。それぞれにさらに熾烈な競争ができちゃうわけ。

そこが、資格など、足の裏の米粒だと言われるゆえんでしょうよ。つまりは、そのフィールドでの戦いがあることを度外視して、ラベルのために資格とってもしょうがないじゃん?ということ。

ここで間違えてはいけないのは、専門教育や訓練に、職業人として意味があるのかどうかとは別問題だということ。

たとえば、社会人大学なり大学院は、経験ありきで職能を伸ばす枠組みだろう。なにがしかの職業で専門をやると決めるんなら、成り行きの現場でのたたき上げに依存するより、どっか行ってちゃんと訓練するほうが確実に早い。ネットワーク効果も度外視できない。

だから、会社の研修だろうが、企業派遣の大学院だろうが、自腹で突撃だろうが、訓練の結果のラベルではなく訓練プロセスに注目してやれるやつにとっては、そういうものを「梃」にして、何倍も成長する確率を上げられる。

そういう行動特性が異なる人材に、進歩や変化のスピードへの取り組み方の違いがあると考えるのは、はずしてはいない。あとは、需要サイドにマッチするかどうかの問題で、それは転職競争力とは関係ない。

いずれにしても、訓練なんてそれぞれの個人の好みと直観に大きく依存する相対的な価値で、ゆえに「王道」を定義する必要すらない。

進歩と変化に関心があるんなら、やりたいことをやりきるために、現実的な手段を選択してがっと行けばいいのだ。

この元記事の山崎元氏がご自慢の人脈からの情報で評論されるんなら、どういう人に、どういう訓練必要で、それがどういう社会や企業のニーズに合うのか、見逃されてるのはどういうものなのか、なんてところをばしっと切り込んでいただきたいものだ。

# disってなんぼなのでしょうけども ;-p

年始から様々な出来事で振り回され兼ねない感があったのだが、はっとさせられる文章に出会った。ある保健教諭が書いたものだ。

・・・
保健とも教育とも全く関係のない本だが、・・・辰巳芳子さんの『あなたのために―いのちを支えるスープ』(文化出版局)である。

 実は料理の本で、題名を見て分かるとおり、様々なスープの作り方が載っている。もちろん、今晩のメニューの参考にすることもあるのだが、あまりに丁寧すぎる工程なため、慌しい毎日を過ごす私にとっては、あまり実用的意味はなく、むしろ、心を落ち着かせるための本と言ってもいい。

 ひとつひとつの材料を丁寧に扱い、ゆっくりと呼吸を合わせ、火と対峙し、なでるようにいとおしむようにスープを作っていく。そんなふうな気持ちで、私も毎日の生活を送っていきたい、と、この本を開くたびに思うのだ。特に大切にしている一節を書き出してみる。

愛につられ、無心に、
  よくなるように、よくなるようにと、
鍋中を見守る。
いつしか天は、用意のある人をつくり、
いざの時、必ず、手を差しのべる。

 保健室はなにもなくて当たり前。だからこそ、『用意のある人』でありたい、と、思っている。
edu.log :: 見てみよう!学校 – 新着学校情報

すばらしい。恐れ入りました。

エモーションとロジックが見事にマッチする情景を見させてもらった。心に促され、論理的に行動する。それは循環することがある。

だから、人は、起きている事象について情報を得ると、それが仮に自分のことでなくても、ときに一喜一憂し、ときにあれやこれやと言い、そして介入したりする。他方、そこから少し離れたところで見る立ち位置の心境は「ひとごと」と冷ややかに映るものだ。さもありなん、人のことにかまけているほど、楽ではないし暇ではないのだから。

しかし、どちらでもない人がいることを知ると救われる。

かつてレストランの厨房でバイトしていたことのある私は、そこで料理の基礎を学んだ。家族に、友人に作るときほど「おいしくなーれ、おいしくなーれ」と声をかけながらスープを作る心境は理解できるつもりだ。仕込みに時間がかかるのを承知で、タイミングを見計らい、たとえば少し火を弱め、たとえば少しの塩を入れる。

そう、腹のくくれた人の行動って、そういうことなんだよね。

少し長めの尺で動くメンタルを大切にしてみようか。

http://rcm-jp.amazon.co.jp/e/cm?t=okdt-22&o=9&p=8&l=as1&asins=4579208250&md=1X69VDGQCMF7Z30FM082&fc1=000000&IS1=1&lt1=_blank&m=amazon&lc1=0000FF&bc1=FFFFFF&bg1=FFFFFF&f=ifr

ここ最近、情報科学がたまらなく面白い。いまさら認識したのかと思われる向きもあろうが、C/UNIX系プログラマー、ネットワーク構築、セキュリティ、業務プロマネ、そして技術ベンチャーとやってきたが、飽きもせずにやってきたのは、それぞれの時代の情報技術(Information Technology)の先端を垣間見ることができるというメリット以上に、情報科学(Information Science)へのあこがれだったんだ、ということ。

情報科学は、情報技術を実際に利用している者の視点から見た様々な問題を扱う。まず技術ありき、のアプローチではなく、まず問題(解決)に着眼するアプローチである。
情報科学 – Wikipedia

関心の根っこは、人が何かの情報に触れるとどういう行動になるんだろう?あるいは、ある行動は、どんな情報に刺激されたものなんだろう?というような、そういうこと。情報そのものをデータとして取り扱うことの楽しさ以上に、何か「効果」を発揮していくところに、非科学的と言ってもいい、人間の介在によるあいまいさとか、ゆらぎとか、あるいはイキオイのようなものが見られる。

これを「情報科学」と呼ぶのだと知ったときはとてもうれしかった!

科学ー何度も実験し、確証のようなものを得ていくプロセス。極めてあいまいな循環であり、ストックとフローの混沌である。これに「情報」というものをかけあわせてフォーカスしたものを情報科学というのであれば、とてつもなくエントロピーが高く感じる。マーケティングもファイナンスも組織マネジメントも、情報科学の適用だと思えば相当面白い。

情報技術的傾向として自分自身について考えるに、、システム屋ゆえだろうか、根深い阻害要因を認識した。たとえをあえて挙げると、直感を信じすぎてデータの隅々に向き合うのをめんどくさいと思うきらいがあること、また自分が仕組みに満足するとそこでおなかいっぱいになり、収束させる傾向があること。これは内部的阻害要因、メンタルブロックと認識した。

あれ?社会一般ってそういうのをどうしてるんだっけ?

そうこうするうち「社会科学技術論」というものに出会った。ここでは、社会的に「これでいい」つまり妥当だと思われることというものをどうやってコンセンサスを取るんだろう?という問題へのアプローチを考えるものだ。たとえば、公害規制、化学調味料の毒性、漏洩放射能の危険レベル、もっと身近に言えば、携帯電話の電磁波レベル、狂牛病対策検査など規制が明確に数値化されてるけど、どうやって決めてるんだろう?というような。

人体実験できるわけでも、何十年もかけて被害を見てから答えを出して良いわけでもない。ここに、科学的実証を前提とする科学の限界がある。また、問題解決のための新しい学説のデビューには、学会ごとに妥当性基準が異なるという構造的な問題がある。これを妥当性境界というんだそうだ。このボーダーが予想外に分厚く、クロストークがなかなかできない。実際、社会コンセンサスは科学者だけでは成り立たない。

だからといって、一般世論による意思決定でも不足だ。山崎はるかさんが群衆の叡智サミット2007のときに持ち出した話で、「これは食べられるかどうか」「この金属に毒性があるか」という問題を解決するのであれば、民衆には血であがなわれた実証をする以外にない。

何もしないわけにいかない。何か決めなきゃいけない。しかも妥当な結論にな!

そこで、社会的妥当性、組織的妥当性、経済的妥当性、科学的妥当性というそれぞれ無視できない妥当性境界を持ち出し、さあどうするよという激論をせざるを得ない。それには、微妙な変化を社会モニタリングすることも必要になる。定性的なものもなんとか定量化して分析したりしなきゃいけない。これは大きな課題である。全員に仕事があるから盛り上がる!

dankogai曰く、バランスを取るのは、あなたの仕事じゃなくてみんなの仕事だそうだが、バランスなんてものはぐらぐらするから面白いのだ。あれ、別に矛盾しないんだっけ。

それぞれの「妥当性」にうまい具合に重なるところがあればそこが合意点のドラフトになりうる。しかし、一見どこにも接点がなければ、エアポケットが生じ、へたすりゃ何年もほったらかしになりかねない。そこで、日本はどうしてるかって、他の先進国はどうしてるんだなんてところで決める傾向があると言われるが、他国がばりばりやってても華麗にスルーしてることもある。

実に面白いと思わない?

私としては、この曖昧な「情報科学」を追求する自分のへたくそな試行錯誤模様を書き残していかなければならないと思い、年末から、tech tech okdt(てくてくおかだっち)なるテクニカルフォーカスのブログを書き始めた。「テクニカル」と聞くとどん引きされる方も少なくないのだが、ここでは、この「情報科学」に重心を置きつつ、ソフトウェア技術からはじまり、社会科学、経営技術なんてのも意識して書いていこうと思う。

あえてはてなを使っているのは、テーマのなじみ感、読者の凝集性の高さかな。こういう話題は濃いところに放り込むのが正解。(不満もあるよ。不満はエネルギーなのでこれまた良い)。はじめたばかりなのに、予想以上にアクセスがあるものだね。

新年早々、tech tech okdtに、駅伝往路を見ながら書いたのをご笑覧あれ。これは、社会動向の数値化から何かの気づきをひねり出す情報科学の試みの本年の「書き初め」としたい。

1.走る人の増。(東洋大往路優勝おめでとう)
2.家計消費の改善
3.美味系消費は好調。カニ、マグロ
4.個人投資家急増ふたたび
5.お手軽海外旅行へ。成田利用は地方空港+ソウルへシフト。
6.自己に投資するサラリーマン
7.ホームレス支援施設の利用増。
8.全国的な高齢者の刑法犯増
9.中国株下落も、まだまだアクティブな中国人。日本への旅行者・日本定住者の増。そしてクレジットカード発行数激増。
10.地方での変動。人口シフト・議員年金・外国人

このご時世に右肩あがりなものを10個、必死こいて探してみた

もちろんツッコミどころ満載だ。視点さえあればネタには事欠かないはずだ。皆さんも楽しんでみられては。

本年もよろしくおつきあいくださいませ。