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http://jp.techcrunch.com/archives/20080725dr-randy-pausch-carnegie-mellon-cs-professor-dead-at-47/
より、
Last Lecture – 「最後の授業」で知られるランディー・パウシュ教授(カーネギーメロン)がとうとう亡くなったとのこと。大前さんもこの人の話をあるコーナーで一番に取り上げていた。

まだ知らなかったら、本読むより動画で授業を見た方がいい。全編バージョンもいろんなサイトで公開されているし、「最後の授業」とか「Last Lecture」で検索すればざくざく見つかる。日本語のキャプションが入ったものもあるようだ。(初めて見たときは無かったけど。)

さて、テーマを絞った話だとしても、今からやるステージが、「最後」だったら、自分は何を伝えたいのか、なんて考えてみたらどんなところが変わるのだろう?

彼の、悲壮感のない、それでいてメッセージ性のとても強いその「Lecture」は、その内容はさることながら、「Last」に向き合う人としての姿勢をLectureするものだと感じた。

後に、Randy PaucheのLast Lectureは私になにか大きなものを残してくれたと言えるようでありたい。

森に行ってみたことがありますか。

私は、梅雨入りした時期の秩父の森とか、大好き。

森の全体ビューを楽しむ人もいれば、個々の木々を見て感動する人もいる。ちなみに、今朝の朝礼で尋ねると、そこにいたスタッフの大半は個々の木々をじっくり見たいタイプで、わずかながら、森としての全体の景観を楽しみたい人がいた。

いずれにしても、森としての成り立ちが、個々の木々の魅力に不可欠。すなわちWhole-Partの関係性。この関係には学べる要素がたくさんある。森に立つ看板には、その森の歴史やなりたちのような概要から説明が書かれていて、続いてそれぞれの個々の木々や小路の解説に言及している。木も森も見ろ、と。

さて、会社から業界という枠組みに拡げて考えても、我々の開発活動はPartでしかない。できることは、せいぜい個別最適。

統計によると、2006年現在、インターネットの利用者は世界人口の16%、日本では60数%にすぎない。そこで利用者にとって快適なツールを作っていくことは、現時点では人類社会全体からすればプチ富裕層のための個別最適にすぎないと言わざるを得ない。人類の叡智を結集できる枠組みにはほど遠い。

だから、それを理解した上で、レバレッジを狙うことに集中しなきゃいけない。たとえば、インターネットユーザを介して、その向こうにいるインターネット利用者ではない人びとや地域にプラスの影響をもたらす方向を狙う。でも、その結果、out of the Netからのフィードバックをどうやって集めるのか、考えなきゃいけないことがたくさんある。それでも、リアル・コラボレーションのハブって何だろう、これをテーマに考えなきゃいけない。

それを、先日LUNARRの高須賀さんに話したら、「それは、めっちゃ考えなきゃいけないけど、答えは出せそうな問題ですね」と言ってもらえた。

だからなのかな、リアルにイノベーションを目指している「人」同士のケミストリを強く誘発する活動にはとても意義を感じる。それが、OSBBだし、WASFORUMだし、WOCSだし、JBPだし、IPAでの活動にもそれがある。そして、ほかでもなくテックスタイル・グループの目指しているもの。

いずれも、大変なんだけど、すっかり楽しめることがカギなんだよね。

じゃあどうするのか。

個々の木をきめ細やかに育てる仕事も、全体として森を守る仕事も、両方とも重要。同時に、理解しあわなければならないけど、両者ともゼネラリストになる必要はないんじゃないかと思ってきた。

「いろんなことができる人」と「なんでも屋」は違う。自分は、やりたいことなら何でもできるようになりたいけど、それでも「なんでも屋」と言われちゃったら負けだと思う。

(個別最適至上主義でなんでもかんでもかけ算方式で全体に展開しようとすると、合成の誤謬(fallacy of composition)が生じ得る。また、ゼネラリストのオーバーコントロールは個々の進歩を容易に阻害しうる。)

ここは、楽器の演奏とバンドの関係と同じで、それぞれのプロフェッショナリゼーションが、他者の視点からの試練を乗り越えるべく気持ちよいGrooveを出していこうと進歩すると、それぞれが外部との共通的なインターフェースを持つようになるので、ひいては全体として調和と成長の両方をもたらしてくれる
ポテンシャルになる。

先日のJBPは11曲、入れ替わり立ち替わり加わったセッションプレイヤーは15名、うち、junoさんはキーボーディストかつバンマス。彼には強いこだわりと意見があるが、それがかえって、全員がいい感じにまとまるきっかけを作っていた。さすが、junoさん。

全体の成長のためを考えれば考えるほど、むしろ逆に自分に軸を強く持って、それぞれのプロフェッショナリゼーションを磨いていかなきゃ。本も読むし、人にも会うし、ベースも練習する。

それはそれは、スリリング。

木を育てる人と森を守る人、個別最適と全体調和、どっちも軸が必要だということなのだと。
だから、そこを磨いていかないと成長しないと思うんだよね。

よっしゃ、一緒に何かやったろうじゃないの、という方、会ってくれませんか。

Screen Shot 2015-09-12 at 13.23.52POPFileはいったいどのようにしてこれほどの高い精度でメールを正しく分類できるのだろうか? その秘密はベイジアンフィルターにある。POPFileはこのベイジアンフィルターという数学理論を採用してメールを解析しているのだ。

ベイジアンフィルターの基礎となっているベイズ理論(Bayes Theory)は、古く18世紀の牧師であり数学者であったトーマス・ベイズ(Thomas Bayes)という英国人によって考え出された原理だ。

ベイズは、「物事を判断する確率は、その物事の観察者にとっての不確かさである」と説き、神の存在でさえ数学的に示すことができると述べたそうだ。この考え方で物事を推定することをベイズ推定(Bayes Estimation)という。

簡単に言うと、新たなできごとを予測する際には、すでに起きている事実と、観察者自身の経験を考慮に入れることにより、かなり正確に推測できる、という考え方である。実生活では当たり前っちゃー当たり前だが、数学的にやるとなると簡単そうには見えない。

たとえば、あなたに宅配便で小ぎれいな小包が届いたとしよう。それが何かうれしいプレゼントか、そうでないかを予測することだろう。単純に確率を述べるなら、いちかばちか、50パーセントという確率だというのもあながち悪いとはいえない。でも、どこか実際的ではない。

実際には、その小包の大きさ、重さ、差出人、内容に関する記載事項などという観察に基づく「事実」と、過去の「経験」に基づく確率、つまりプレゼントだと思ったらそうでなかったという確率、あるいは期待通りだった確率を考え合わせるからだ。これを考慮に入れてはじめて、実際の結果にかなり近い予測が可能となる。

この考え方で正しい分類を予測するために、POPFileは最初にいくらかユーザーのトレーニングを受けると、それらのメールから学習する。

つまり、添付ファイルやHTMLのタグやコメントを取り除き、残されたヘッダと本文をコーパス(corpus)と呼ばれる単語群に分解する。 そして、分類されるメールの共通点を知るために、出現頻度の高いものを重み付けし、こうしてメールにおける各単語の出現と各バケツに分類された確率を計算できるようにコーパスデータベースを構築する。

新たなメールを受け取ると、POPFileはそのコーパスデータベースに基づいて、「バケツ」への分類に影響を及ぼす単語を抽出し、その単語の有無や出現回数などから計算して、いずれのバケツに分類するかを決定する。

その作業の過程で、POPFileは未知の単語にも遭遇するわけで、それによってセルフトレーニングを行うため、ユーザが間違いを指摘しない限り、自然に精度の高いコーパスデータベースができあがっていく。 間違った分類をしたことを指摘される(つまり手動で再分類される)と、POPFileはそのデータベースを訂正する。これにより、POPFileは「観察者の判断」を学習し、分類精度を上げることができるのだ。

ためしにPOPFile UIの「履歴」メニューから、spamに認定されたメールの「件名」をクリックしてみて欲しい。すると、メールヘッダと本文のあちこちがバケツと同じ色にされて表示されている。

さらに、ページの下のほうから「単語の頻度を表示」「単語の確率を表示」というリンクをたどると、各メールの分類に大きな影響を及ぼした単語が順に表示されており、大変興味深い。

POPFileのデータベースにスパムで使われる単語が十分蓄積されていくにつれ、業者はスパムらしからぬ単語を使ってメールを送らない限り、その判定をすり抜けることは難しくなっていく一方だ。

しかし、そのようなメールでは、スパム業者の目的を達することはできないだろう。スパムのフィルタリングの技術が向上するにつれ、彼らのビジネス上の目的が立ち行かなくなり、ついにはスパムメールという手段をあきらめてくれるようになればよいのだが。

(この文章はiNTERNET Magazine 2004/3, p.105に掲載された文に若干加筆したものです)

1995年1/17午前5時46分、わたしは明石海峡の見えるアパート2Fの部屋にいた。祝日の翌朝ということもあり、いろいろと昼間にできなかったことをしていたので、徹夜に近い状態だったので、その時刻も当然起きていた。ちょうど、セミハイベッドに座って、それまでの一日の無事と、来たるべき一日の成功をふと祈った時のことだった。

聞きなれない音が近づいてきた。そのアパートの付近では時折、数百台の大暴走が繰り広げられたりもしたことがあるので(それはそれで大変な地響きがするのだが)、最初はそれなのかなと思った。ここあたりからは、すべて、思い出すと事故で車にぶつかる瞬間を思い出すときのように、一瞬を長い時間として記憶している。脳がエキサイトしているゆえのスローモーションメモリーというわけだ。

瞬間、アパートの床が大海原と化した。窓ガラスがうねり、寝室の6畳間の、向かいの壁においてある本棚から、水平に分厚い本が飛んできた。天井のサークラインは揺れすぎて引きちぎれんばかりとなった。台所で大音量と共に食器棚が倒れた音がする。大量のCDラック、カセットラック、オーディオセットがうれしくない鈍い金属音をたてている。さきほどシャットダウンしたマシンが気がかりだった、、、(当時のマシンのカーネルは1.1.80あたりからアップデートしたてだった)しかしそれどころではないシェイクに、船酔いする暇もない大海原となっていたのだ。ぼろいアパートごと、溺死するかと思った。まじでポルターガイストどころの騒ぎではない。まじでハルマゲドンかと思ったくらいだ。この間、実測ではわずか45秒。体験して覚えている内容は数時間分もあるような気がする。

あたりはまっくらであり、そしてすっかり静まり返っていた。しばらくの余震と共に、外からうめき声が聞こえる。家の中がめちゃくちゃやー、という絶句からふとこぼれたおっさんの声も聞こえる。わたしは運悪く寝巻きに着替えたところだったので、てさぐりで、ついさっきまで来ていたトレーナに着替える。ピーピー言っているUPSに電気スタンドをつけ、一時的に明るくした。電話は、、、ダメだ。とにかく部屋からでなければ、余震でつぶされてしまう。いやむしろ、このアパートはすでにつぶれているのか?1階に住んでいた老人が心配になった。ばりばりと本棚やCDやテーブルや食器棚や、その他もろもろの上を通り、玄関を蹴破る勢いで外に出た。

外に出ると、隣人たちが庭に出て、わたしが無事出てきたのを喜んでくれた。でもその30分後に1階の老人が着物をきちんと羽織って出てくるまでは、全員気が気でなかったのは後日談ならではのいい話だ。その後、およそ外が白んできて、みんなアパートから一歩離れたところでどうしようかあれやこれやと相談した。余震が怖い。何度も震度3、4で揺れた。とりあえず、車とバイクのキーは持っていた。身近な家族、友人の無事を確認するため、出かけることにした。そしてこの日から数週間、時間や日付を全く意識できない日々が始まったのだ。

同日、父は東京に出張に出ていた。騒がしさに目が覚めて見ると、戦争でもおきたのかと思ったのだそうだ。それが見慣れた神戸であり、しかも我が家があり、そこに嫁入り直前(本当に直前)の娘も含む家族がおり、電話もなにもつながらない絶望的な状況をどう考えたのだろうかと想像するだけで同情できる。会議をキャンセルし、羽田に向かうタクシーのおじさんに雑貨屋と靴屋を経由してもらい、スポーツシューズと雨具とポリ袋を調達したそうだ。

なんとか伊丹空港に降り立ったものの、身動きなんてできたものではない。地元のバスで数キロでも進み、陥没した伊丹駅の前で降り、タクシーを乗り継ぎ、尼崎から倒れた阪神高速を横目に東灘までまさに歩き、恩師の家を思い出して山に登り、自転車を借りた。恩師はまずは泊まっていきなさい、と無理やり寝かしつけてくれたそうだ。大局を見据えたすばらしいアドバイスである。コンビニ、自動販売機は略奪の被害にあっていた。三宮のセンター街は強盗の荒地と化した。その模様を父はどんな思いで、家族のこともどんなに心配してその道を進んだことだろう。とにかく知恵をしぼりまくって、電波少年さながらの大変な目をして自転車で帰ってきた父を思い出す。「おお、良太郎、つぶれてなかったか、ははは」と聞いた、あの父のことを思うと、今でも目頭が熱くなる。父とは、ああでなければならない。

# あ、まだ生きてるんですけどね(笑

これが私の「阪神大震災」「阪神淡路大震災」そして世界中で「the Great Hanshin Earthquake」に関する覚書である。この震災で得たものは真の友、失ったものはみせかけの友、両方が共存し、なかなか見分け難いというところか。ただ、わたしとて、自分にとって本当に大切な人たちのためにしか動けなかったし、わたしを本当に大切だと思ってくれる人からのみ、大切に守ってもらったように思う。早いうちに無事を確認しにわざわざ来てくれた人の一人はとても大切な存在となった。

当時のマイカーのスズキジムニーも、バイクのYAMAHA DTも、道なき道を行っては大勢の人の善意を受け、そしてそれを手から手に伝えていった戦友だ。「どうせ君は、家にも戻らないで必死で(救援に)走り回っているんだろう」とメモを入れて、オロナミンCと綿の靴下とチョコレートを東京方面から送ってくれた友人は、ここまで私のことを良くわかっている人間だとは思っていなかった人だった。駆けずり回ることを止められない私には、とてもありがたい差し入れだった。

時がたって、いろいろな人と出会い、そしてなにがしかの理由で会えなくなったり、別れたりする。人間関係は増えた分だけいいことも多いし一方で傷もつくものだ。しかし、何にせよ、結局は人と人のすばらしい結びつきでしか人間は生きられないのだ。ふるいにかけられて道をはずした人もいれば、ぎりぎりで目を覚ます人もいる。その震災が多くの人の人生に影響を与えたように、その同じ記憶が、人の人生を補正するために良い作用をすることもあろう、と願うばかりだ。

温故知新、まさにそうかもしれない。家族も人も、大切にしよう。な、そう思わないか?おれはつくづくそう思うんだ。そうしてこそ、自分の人生といえると思うのだ。それが一人としてはつたないものであればこそ、人の歴史なのだと。な、わが兄弟よ。

(for comment…[slashdot.jp])